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エッサイ

2014 / 01 / 26

近江の人

近江の人

「行く春を近江の人と惜しみける」―芭蕉の句である。ここでうたわれた近江の人は、京の人でも、浪速(なにわ)の人でも、なんだかそぐわない気がする。
京都の人なら、何となくオツにかまえ過ぎた感じがするし、また、それが大阪の人なら、申しわけないが、いくらか情緒不足のような気がする。

この句は、膳所(ぜぜ)にある義仲寺(ぎちゅうじ)の句碑にも刻まれている。義仲寺は、芭蕉の遺骸が葬られた寺だ。大阪で倒れた芭蕉は、遺言として弟子たちに、
この義仲寺に自分の亡骸を葬るように言いのこした。今なら膳所と大阪は、東海道線でいくらもかからないが、その時代は大仕事だったにちがいない。
淀川を川船で引いて伏見までさかのぼり、そこから陸路で遺骸は運ばれた。それだけでも、芭蕉の近江を想う気持ちが、ただならないものだったことがわかる。

芭蕉が詠んだように、滋賀の資産は、人と自然だと思っている。人と自然なら、日本全国どこにでもあるが、かの芭蕉がここまで肩入れしたところが、この近江の国なのだ。
滋賀の人は、このことをもっと誇りに思ってよいと思う。

この句が実際に詠まれた場所は、湖西の唐崎あたりだと言う。びわ湖に船を浮かべて、春の名残りを、近江の友人、門人たちと惜しんだときのことを詠んだ句だ。
そして、この句の初案は、「行く春を」ではなくて、「行く春や」だったともされている。

もし、それが事実なら、句の味わいは、俄然、ちがったものになってくる。「行く春や」であれば、芭蕉がこの句にかけた重心は、去りゆく春そのものになる。
ところが、「行く春を」であれば、その重心はにわかに「近江の人」に移る。当然、今の句のように筆をあらためた芭蕉の気持は、「近江の人」にこそ、力をこめたかったのだと考えられる。
京の人でも、浪速の人でも、絶対にいけなかったのだ。

芭蕉にとって、琵琶湖の春は、惜しんでも惜しみきれないほど美しいものだったのだろう。
また、それにまして、その自然の美しさを、ともに語り合うべき人は、近江の人でなければならなかったのである。