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エッサイ

2014 / 10 / 15

捨てられたもの

青木美歌(会場:幸村邸隠居)青木美歌(会場:幸村邸隠居)

先週のマザーレイクで紹介した、BIWAKOビエンナーレのことで、少し言い足りないことがあったような気がしたので、続きを書いてみたい。

ビエンナーレの会場は、近江八幡市のお堀周辺の、カフェだったり、みやげ物屋の二階だったりするのだけれど、その中のいくつかは、今は使われていない商人屋敷の跡や、昔の酒蔵だったりする。

今回の展覧会も、かつての酒造工場のような会場(まちや倶楽部:旧西勝酒造)での作品群がとくに目をひいた。例えば、市川平の、青白い光の中を行き来する電車は、
何の拍子か、閉鎖された古工場にでも迷いこんだところ、もう何十年も前に廃線になった市電が、実は人知れずコトコトと走り続けていたような不気味さがある。
また、遠山伸吾の、包帯をまいたミイラのような宙を舞うオブジェは、かつてそこに棲んでいた酒の精か、その亡霊のようだ。

おもしろいのは、こうした、今はもう役立たずで忘れられた空間や、そして、そこに置かれている、社会的には役立たずのオブジェや、
打ち捨てられた廃品で作ったようなインスタレーションが、妙に生々しい生命感を、見る者に与えることだ。

逆にいえば、それは本当に捨てられるべきものだったのか。また、一面そうだったとしても、「コレ、要らないや」と、ポイと捨てる前に、
ちょっと思いとどまって耳をあててみると、まだ、心臓はドクドクと音をたてて血脈が流れていたのではないか、という気もしてくる。

それがモノのようなものにしろ、考え方やシステムのようなものにせよ、僕たちが、日ごろのくらしの中で、わりと安易に生死を決めているもの中に、
ふと草むらからそれを拾いあげてみると、「あれ?コイツまだ生きているじゃん」というものが、実は、少なくないではないだろうか。

見学の最後に、お堀端の、すっかり廃屋になってしまった幸村邸を訪ねたら、二年前に訪れたときとまったく同じ青木美歌の作品が置かれていた。
そこで番をしていた学生に聞くと、青木の作品は、前々回からそのままなのだというから、この4年間もの間、誰に気づかれることもなく、ひっそりと一人その屋敷で暮らしていたことになる。

*市川平、遠山伸吾、青木美歌の作品は、「第6回BIWAKOビエンナーレ」を参照。