昔のノートを整理していたら、こんな文章が見つかった。日付は一九八六年の七月で、ヨーロッパ旅行中に、イタリアのヴェネチアビエンナーレの会場を訪れたときのメモ書きだ。
―「サンマルコ広場の人だかりにくらべて、いかにも少ない。数えるほどしか人はいない。中にははるばるやって来た私のような日本人も見かけるが、イタリア人の中でも、
このビエンナーレはよく知られていないのではないか。また、知っていても足を運ぶ人は少ないのだろう。つまり、イタリア人の多くが前衛的な作品に興味があるとか、
能力にたけているということではない。だが、そういう能力にたけた人物の行動を寛容に見る雰囲気、環境づくりに優れているのではないか」。
自分で振り返っても、けっこう大人びたことを書いているものだと思う。ちょうど三十歳のころだから、大人といえば大人なのだが、それに倍する年齢にさしかかる今の私から見れば、
ヒヨコのような年ごろにも思える。念のため調べてみると、今でこそビエンナーレ形式の現代アート展は日本でも盛んだが、さしものヴェネチアビエンナーレもこのころは、一九八0年をピークに、
大きく観客動員数が落ち込んでいた時期だということがわかった。その意味では、我ながら、正確に当時の様子をとらえているメモ書きでもあるわけだ。
こんな古ぼけたメモに目がとまったのは、最近の大ニュース、STAP細胞の研究で脚光を浴びた小保方晴子さんのことを思い出したからでもある。
女性で三十歳という若さと、その生物界を揺るがせるような業績の大きさのギャップに驚きの声が上がっている。もちろん、業績と性別に関係はないし、
また、業績とその年齢にも関係はない。私のヴェネチアビエンナーレ見学記とSTAP細胞の研究では比べるべくもないけれど、わが身を振り返っても、むしろ若いときの観察力、集中力の方がはるかに高い。
その意味からいえば、私が身を置いているアカデミックな世界も、本来は、スポーツの世界のような実力主義の世界でなければならない。
また、スポーツと違って、性別の違いにも手心を加える必要はないのだから、もっと実力主義が徹底されてしかるべきだろう。
果たして、今の私は、三十歳のころの私に勝てるだろうか。もしそうでないとしたら、と、ここまで書いて、筆がとまってしまった。