検索アイコン

エッサイ

2014 / 09 / 25

不思議

不思議

東京に住んでいたころ、こんな経験がある。そのころは毎朝、7時ごろに家を出ていた。そして、近くの駅の7時すぎの決まった時刻の電車に乗る。
私の家から駅までは数百メートルの距離だが、駅に通じたメインストリートには、何本かの小さな脇道が合流していた。

ある季節のこと、私と同じ電車に乗るのだろう、小学校一、二年生くらいの制服を着た女の子と、毎朝、道の途中で顔を合わせるようになった。
同じ時刻の電車に乗るのだから仕方ないのだが、その女の子が、たいてい同じようなタイミングで、毎朝、少し坂になった脇道からメインストリートへとあらわれるのだった。

そんな日が何日か続いたのだが、私も、何かの拍子でいつもの電車を乗り過ごすことがあった。その場合、次の電車のタイミングで家を出るのだが、
そんなある日、一本遅れの電車を目指していた私は、いつもと同じように、道で、その女の子に出会ったのだった。ちょっと驚いたが、そうか、この子も自分と同じように、今朝は寝坊したのだろうな、と思った。

そして再び、いつも通りの通勤時間に、その女の子に出会う毎日が続いたのだが、また一本遅れの電車を目指していた朝、再び、その女の子が脇道から現れたのだ。
今度は少し気味悪く感じた。こちらが、その日遅れたのは偶然だった。前のことも偶然だったにしても、そんなに重なるものだろうか。
脇道は細く、しかも坂道だから、遠くから私を監視することはできない。いや、そもそもなぜ小学生の女の子が、おじさんの通勤を監視する必要があるのか。

それから数日後、休日の駅で、あっと驚いた。かわいらしい同じドレスを着た女の子が二人、並んでホームに立っていた。双子だったのだ。
一人の女の子は、いつもの私と同じ電車に乗る。そして、もう一人の子は一本遅れの電車に乗っていたのだ。

タネを明かせば、なーんだ、ということになるが、これが現代の情報社会を支えている根本理論でもある。モノは絶対に、同時に二ヶ所に存在することはできない。
同じ一人の女の子は、同じ時刻に、道を歩いていることと、電車に乗っていることの二つを実現することはできない。だから、双子といえども、二人の人間が必要になる。

ところが、情報は違う。顔がそっくりで同じ制服を着た女の子であれば、同時刻に、電車に乗っていつつ、脇道から顔を表すこともできるのだ。
それを私は、一人の女の子の仕業だと、思い込んでしまっていたのだ。私たちが、同じ音楽を、世界中で同時に楽しむことができるのは、情報の持つ、こうした性格からなのである。