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旅歩き

2014 / 08 / 16

住友活機園(すみともかっきえん)

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住友活機園(すみともかっきえん)

住友活機園(すみともかっきえん)

活機園って何だろう。なんとなく活気があるような、でも、園がついているから、
公園のようなところなのだろうか。だいたい当たっていますが、公園のような、
でも、もっと風情のある、美しいところ。チャンスがあれば、ぜひ訪ねてみてください。

場所は、京阪鉄道の石山駅から歩いて十分くらいのところ。新幹線の高架のすぐ近く。
こんなところに、こんなすばらしいところが、と思わせる、いわば町中の桃源郷のような場所です。

住友活機園(洋館)住友活機園(洋館)

国指定の重要文化財ともなっている、この住友活機園が作られたのは、
一九0四年(明治三七年)、作ったのは伊庭貞剛(いばていごう 一八四七?一九二六)という人物。
彼は、今の近江八幡市に生まれ育ち、大阪上等裁判所の判事などをつとめた後、庭園の名前にもあるとおり、
住友財閥の総理事まで上りつめた偉い人。住友時代には、住友銀行や別子鉱業所など、住友の主要な会社を作り上げた。
その伊庭翁が、引退するにあたってこしらえたのが、この住友活機園というわけ。ちなみに、「活機」とは、禅宗の思想で、
“世俗を離れながらも人情の機微に通じる”という意味だとのこと。

ふだんも公開されているけれど(予約制)、建物内部が公開されるのは、毎年、春のこの時期だけ。
私は、見学応募のハガキが運よく当たって訪ねてみました。急な石段を登って、玄関から園内へ一歩足を運ぶと、
もうそこは別世界。さらに、つづら折りの庭園道を上がってゆくと、急に視界が開け、そこには、
美しく手入れされた芝生庭園が一面に。そして、青空を背景に、歴史を感じさせる洋館が、すくっとそびえ立っていました。
また、その洋館の左手には、棟続きで、数寄屋建築が軒をつらねています。

洋館の前には、美しい芝生庭園が広がる洋館の前には、美しい芝生庭園が広がる

案内の人の後について、さっそく洋館の建物内部へ。まず案内されたのが、洋館一階の食堂。
大きなテーブルに木製の椅子が並んで、今すぐにでも晩餐会が始まりそうな雰囲気。つくられた時代背景もあって、
ところどころに、当時、流行のアール・ヌーボー様式のデザインもほどこされていて、シンプルかつ、よく見れば凝ったつくりに。
建物の内部は写真撮影が禁止されていてお見せできないのが、とても残念。階段を上がった二階の客間は、
瀬田川の流れがすぐそこに見えたという、すばらしい眺望。そして、そのとなりは、伊庭氏の寝室になっていて、
天井には、外気の取り入れ口設備がそなえられ、今でいう天然のエアコン装置付きのお部屋。

ところで、どうして、こんな洋館を?と思いがちだけれど、当時のお金持ちにとって、
洋館と伝統的な日本様式の建物を二ついっしょに建てるのが、お屋敷づくりのひとつの考え方だったそう。
そういえば、私たちの今の住まいにも、洋間と和室が混在している家も珍しくない。それを広い敷地に、
別々に建てたのだと考えればいいのかもしれない。とはいえ、とても今の私たちに真似できない様式・・。

洋館の建物の屋根のてっぺんには、良く見ると、かわいらしいハートをくり抜いた瓦が並んでいる。
これは猪目(いのめ)瓦と言って、一説によれば、イノシシの目はハート型をしているらしく、
その意匠を瓦にあしらったのだという。開運の意味がこめられているのだそうだけれど、見学の際には、ぜひお見逃しくなく。

屋根の頂上には、ハートがくり抜かれた、かわいらしい猪目(いのめ)瓦が並ぶ屋根の頂上には、ハートがくり抜かれた、かわいらしい猪目(いのめ)瓦が並ぶ

次は、廊下づたいに、棟続きの数寄屋建築の和室空間へ。座敷は、八畳敷きの部屋が二間つながった大きな空間。
目の前には、落ち着いた日本庭園が広がっている。建築の世界で、和洋の違いは、構造、材質、空間構成とまったく対照的なのだけれど、
ここでわかったことは、空間と自然の関係。洋館の方は、窓や出入口こそあれ、建物の外と内とは、きっちりと厚い壁で隔てられている。

外と内が一体となった数寄屋づくりの日本的空間外と内が一体となった数寄屋づくりの日本的空間

それに対して、日本家屋の方はといえば、畳座敷の周りに縁(えん)がめぐり、
その縁の外の自然空間とを隔てるものは何もない。もちろん、夜には雨戸がたてられるのだけれど、
それをのぞけば、まったく内の世界と外の世界に境はない。

もともと、この活機園は、今の五倍もの広さの、一万一千坪もあったのだそう。
それが、新幹線の開通で敷地の多くを売り払い、今の広さに。それでも、ためいきをつくような、ゆったりとした広大な空間。

落ち着いたたたずまいの座敷空間落ち着いたたたずまいの座敷空間

最後に、とってもすばらしい言葉が、案内パンフレットに載っていたので、ご紹介します。
それは、ここで、八十歳で亡くなった伊庭翁の言葉―「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくて、
老人の跋扈(ばっこ)である」。住友財閥の総理事を、たった四年つとめただけで、この地に隠棲することを決めたときの言葉だそうです。