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エッサイ

2013 / 05 / 03

知っているということ

知っているということ

私たちは、自分と異質のものに対して攻撃的だ。民族や国の違いはもちろんのこと、文化や歴史が異なったり、細かなことでいえば、趣味やライフスタイルが違っただけで、「アイツとは、どうも虫が合わない」ということになる。

そして、さらに私たちを攻撃的に、場合によっては、極端なほど防御的にするのは、それが、人であれ何であれ、それについてよく「知らない」ということだ。

広告の世界に、オープン・ザ・ドア効果というのがある。例えばあなたが、ほとんど名前の知られていない会社の営業マンで、一戸、一戸、見知らぬ家を訪ねてまわらなければいけないとしよう。おそらくセールスはうまくいかず、ほとんどの家で、戸口さえ開けてもらえず、インタフォン越しに断られてしまうに違いない。

ところが、あなたの会社が、ある日、大量のテレビコマーシャルを流し始め、詳しいことはともかく、会社の名前と商品名くらいは、みんなに知られたとする。どうだろうか。あなたのセールス商品が売れるかどうか別として、とりあえず、家のドアくらいは開けて、話を聞いてくれるようになるのだ。

人間はよく知らないことに対しては、慎重になり、また、極端におびえ、時として必要以上に攻撃的になる。だが、ただたんに知っているというだけで、常識的かつ人間的な対応をとるようになるのである。

私のクラスにも、中国からの留学生がいる。また、過去にも、何人もの中国や韓国からの学生たちを教育し、送り出している。私も彼らについてよく知り、また、彼らの方も私や日本の友人たちについてよく知っているはずだ。

もし、国と国の間でつまらぬいさかいが起こったとき、吹聴される噂に耳を貸すのではなく、例えば、相手の国の親しい友人のことを思い浮かべることだ。そうすることによって、私たちの気持ちと態度は、ガラリと変わるはずである。