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エッサイ

2013 / 05 / 03

お台場

お台場

みなさんも良くご存じの東京・お台場。新橋から「ゆりかもめ」に乗って、どんどん東京湾方向にいくと、
やがて広がる広大な埋立地がそこだ。

このお台場は、私によって夢のような場所でもある。と言っても、決してそれは夢のように美しいところ、という意味ではない。
文字通り、私にとってそこは、まるで夢を見ているような場所なのだ。

わけをいえば、お台場を訪れるたびに、こんな夢の記憶におそわれるからだ。場所はどうも、
フジテレビ本社の裏あたりのような気がするのだが、そこは一面の野原で、また四方には、
その野原とは裏腹な奇妙なビル群が林立している。そこを夕暮れ時に、懸命に一人で駆け回っているというのが夢の内容だ。
現実にそんな体験は、決してしていないような気がするし、また、それが夢なら、いつ見た夢なのかもはっきりもしない。

最近も、このお台場にある国際展示場を訪れた帰りに、またこの非現実なシーンを思い出した。
この不思議な回想はいつものことなのだが、ゆりかもめに揺られながら、その理由を考えてみると、思いあたることがあった。

20世紀のはじめ、ヨーロッパでさかんになった、シュールレアリスムという芸術運動がある。
まさに夢と現実の境を表現したような芸術運動なのだが、その中の代表的作家のひとりに、
キリコ(1888~1978 ベルギー)というアーチストがいる。その絵は、みなさんもどこかで見たことがあると思うが、
多くは、しんとした音のないような世界に、石造りのアーケードや煙突、風車などを脈絡なく描きこんだ作品である。

少し専門的になるが、こうした芸術上の表現技法をディペイズマンと言う。その手法を説明すると、
ひとつひとつは具体的で身近なものでも、それらの関係性をまったく無視して並べると、全体としては、まさに夢の中のような情景へと変化してしまうというものだ。

そして、まさに私が、ゆりかもめの車窓から見ているお台場が、そうであることに気づいたのだった。
巨大な建築物の数々、赤色の大観覧車、無国籍な木々の生えた植栽、広がる駐車場。ひとつひとは、現実そのものだが、
そこに等身大のものは何もなく、また互いの関係性はまったく無視ざれている。

先端を目指したはずの都市開発が、悪夢のような空間を作りあげてしまったといえば、はたして、言い過ぎだろうか。