私は、自他ともに認める大ざっぱな人だ。でも、私たち人間は、すべて大ざっぱにできているのだと言ったらびっくりするかもしれない。
けれど、それが事実らしい。
以前もこのエッセイで書いたけれど、文系一筋でやってきたことを大いに反省して、
最近、畑違いの世界の本を読むことを始めたら、目からウロコのような話がどんどん出てくるのだ。
たとえば人間は、実は、雲か霞(かすみ)のような存在で、ある瞬間、瞬間にしか、確率的に存在するものでしかない、
なんて言ってたら、誰も信じてくれそうにないのだが、つきつめれば、そうらしいのだ。そんなバカな、
という声も聞こえそうだけれど、ちゃんとあなたがそこにいるように見えるのは、
たいへん大ざっぱな人間の目でそうも見えるだけのことで、もっと小さな世界、ナノ(大きさでいえば、10億分の1メートル)
単位よりさらに小さな原子の世界まで入り込むと、私たちは、まるで点いたり消えたりの電球のような、
まったく不確かな存在(学問的にいうと、ある確率でしか存在しない、エネルギーの疎密状態)らしい。
それはちょうど、油絵の世界を思い出せばよいのかもしれない。どんなに写実的な絵画でも、
どんどん絵に近づいていって、とうとう画面に額が当たるようなところまでいって見ると、
元の正確な描写はまったく消えてしまって、それは、たんに筆で荒く塗りたくられた絵の具のかたまりにしかすぎないことがわかるはずだ。
しかもその絵の具は、あるときは跡形もなく、ある瞬間にだけ、そこにあるという、ちょっと想像を絶する具合なのだ。
こんなことを書くと、はじめて聞く人には、おそらく作り話のように聞こえるかもしれないが、
物理学の最先端(とはいえ、大学の物理系の人ならたいてい習う量子力学の世界)では、ごく当たり前の話で、
仏教で説かれる、「色即是空、空即是色(モノは空であり、空がモノである)」とは、まったく誇張でも絵空事でもなく、それこそが現実ということになる。
つまり、どんなに四角四面に生きても、どんなに几帳面に生活しても、あなたの存在は、
原子の世界に行けば、生きてるか死んでるかどころではなく、あるのか無いのかさえわからない存在なのだ。
この話を読んだとき、そうか、だからボクの大ざっぱさは仕方ないんだ、と納得したのだけれど、これもまた大ざっぱに過ぎる納得の仕方なのかもしれない。