けっこう私は、ゴソゴソ外に出かけて行って、現場のお手伝いなどをする方だ、と自分でも思っている。
もちろん、十数年前には、広告世界という現場にいたせいもあるのだが、ただ、それだけが理由ではない。
教壇に立つ者として、抽象は具体から生まれる、という固い思いがあるからだ。
この考えは、自分で思いついた話ではなくて、ある本で読んで、そこからいただいたものだ。
戦後、ある校長先生が、一人の教育者をたずねてやって来た。太平洋戦争に負けた日本は、学校での宗教教育を禁じられていた。
それが、連合国の占領も終わって、授業の中でも少しだけなら宗教の問題に触れてよいことになったらしい。ただ、困った問題がひとつだけあった。
文部省からのお達しによると、「宗教について教えてもよいが、具体的に、仏教の宗派だとかに触れてはいけない」というものだったらしい。
校長先生が、その教育者をおとずれたのは、では、どんな教え方をすればよいのか、と迷った末のことだった。
教育者の答えはこうだった。「お役所の言っていることを、例えていえば、こんなふうになるでしょう。
あなたの学校の校庭に緑を植えなさい。でも、具体的にイチョウの木や、柳の木を植えてはいけません。それと同じです。
つまり、先に緑という抽象があって、柳やイチョウの木があるのではない。その逆で、具体的な木がまずあって、そこから緑という抽象が生まれるのです」。
校長先生は、なるほどと自信を持って、具体的な宗教についての話をまじえながら、子供たちに授業を行うことができたらしい。
ただ、こうして教壇に立つ人だけでなく、世の中のほとんどの人が、まるで、抽象は突然に生まれたかのような錯覚をしていることが、
たいへん多いような気がする。例えば、日本は、世界は、今の若者は、とかだ。
決してそうではない。大切なのは、日本ではなく、具体的なあなたや私たちであって、
また、若者とは、今、私の目の前にいる学生のことだ。そこからしか話は始まらないし、また、始めてはいけないのだと、思っている。