ここ数日寒かったせいもあって、久しぶりに近くの毘沙門堂まで散歩に出かけたところ、一週間前まで、まだ紅くきれいだったもみじの葉がすっかり落ちていた。
山門につながる石段に、茶色くなった枯葉が幾重にも積もって、中には、ほとんど粉のようになって、山からの風にすくわれそうなものもあった。
紅葉もきれいだが、5月あたりの新緑のころも、それは目を見張るような美しさだ。それがやがて夏を迎え、葉の緑も濃くなって、秋の終わりになれば紅く色づく。そして、枯葉になって、風に舞い、土に帰る。
これは、もみじに限ったことではなく、生命を持ったものすべてに共通する営みで、植物も人も虫も、みんな例外なくたどる道だ。このことは、ちょっと悲しいようでもあるけれど、考えれば、よく出来た仕組みでもあるのだ。
物理で習ったように、エネルギー保存の法則というのがあって、僕たちが使えるエネルギーや、人間というカタチを作っているエネルギーそのもの、
あるいは、地球全体のエネルギーをひっくるめると、それは増えもしなければ減ることもない。ちょうどそれは、一枚のじゅうたんのようなもので、どこかに飛び出した部分ができると、どこかでへこまなければ、辻褄(つじつま)が合わなくなるのだ。
つまり、何か新たにエネルギーを使う存在、例えば、赤ちゃんがオギャーと生まれると、残酷なようだが、どこかで老人が一人亡くならなければ、しまいに収支が合わなくなるのだ。
永遠に人も虫も死なず、また、もみじの葉も散ることがなければ、この世の中は、大混雑に違いない。熱帯のジャングルに、満員電車の人があふれ出したような状態になってしまうのだ。
そして、このことを、さらにさかのぼって考えると、いつの日か世の中から消えていく仕組みを宿したものだけに、この地上に生命を営むことが許されているのだ、
ということがわかる。もみじの葉が、緑や紅い葉を美しく輝かせることができるのは、やがて枯葉となって、風に舞って散っていくことを、この大宇宙を司る神に、ちゃんと約束しているからに他ならない。