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エッサイ

2013 / 05 / 03

将棋と自転車屋

将棋と自転車屋

中学時代の一時期、クラスで将棋が流行ったことがあった。腕前はたいていがドングリの背比べだったが、一人だけ、ダントツに強い子がいた。厚紙に定規で線を引いただけの将棋盤を、最初に教室に持ち込んだのも彼だった。彼とさすと、みんなコテンパにやられた。

その子の家は、自転車屋だった。商店街の入り口あたりに店を構えていて、ときどき遊びに行くと、オヤジさんは、必ず近所の誰かと将棋盤をかこんでいた。仕事はそっちのけで、パンク修理か何かの客が来ると、いかにも面倒くさそうに応対していた。息子の将棋の腕前が上がるはずだった。

もうこんな自転車屋はどこにも見かけなくなった。シャッター街の一員として店をたたむか、開いていても、とても先行きはおぼつかない。自転車屋にかぎらず、店先でのんびり、日がな将棋をさしながら商売をするような店は、まず生きてはいけないのだ。

だが、世界中これが当たり前かとういうと、そうでもない。先進国とされるヨーロッパでさえ、今でも、パン屋でも八百屋でも、洋服屋でも、昔ながらの個人商店がきちんと残っている。本当かどうか疑う人は、たとえば、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組を見ればわかる。あの映像は、特別の地域だけを撮っているのではない。

お金を使う人が何を買い求めるかは、実は、売っている人のだれに生き残ってもらうのかという問題に直結している。どこかでものを買うということは、別のあなたのところでは買わないという意思表示の裏返しなのだ。当然、私たち自身が、消費するだけでなく、自分も作ったり、売ったりする側にも立つわけだから、まさに人ごとではない。

消費者としての私たちと、市民としての私たちは同じ人物だ。安いとか、便利だとかだけを優先すれば、市民としての私たちは、気がつかないうちに消えてなくなってしまう。自転車屋だけではない。街全体が吹き飛ばされてしまうのだ。