今年の3月に亡くなった吉本隆明さんの、最後の講演会を記録したテレビ番組を見た。会の進行役はコピーライターの糸井重里さんだった。
糸井さんと吉本さんの取り合わせは、最初のうち、なんとなく異質に見えたのだが、よく考えれば、社会思想家の吉本さんと、
コピーライターの糸井さんといえば、どちらも言葉の世界で生きているわけで、不思議はなかった。
講演の中で吉本さんが、糸井さんの活躍してきた広告の世界でも、大切に思える考え方を披露した。
それは、聞き慣れない言い回しだけれど、言葉の役割を二つに分類した、「自己表出」と「指示表出」という考え方だった。
吉本さん流のわかりやすい例えでいうと、たとえば野の花を見て、こころの中で、「ああ、きれいな花だな」とつぶやくのが、
言葉の持つ自己表出機能。一方、となりにいる誰かに、「ここにきれいな花があるよ」と知らせてあげるのが、指示表出機能だという。
もちろん私たちは、そんなに厳密に区別して言葉を使っているわけではないけれど、これを、広告表現の世界に置きかえてみると、
例えば「1980円、だんぜんお得!」というのは、安いですよ、という事実をたんに消費者に伝えているだけだから、指示表出中心の表現ということになる。
気づいてみると、言葉によるコミュニケーション世界で、こうした指示表出に偏った表現が、ますます幅をきかせるようになっているのではないだろうか。
新聞を開いても、テレビを見ても、ロゴデザインやレイアウトで奇をてらったり、映像なら、タレントとCGの駆使でごま化す。
そして、言っているのは、素敵ですよ、安いですよ、ということだけ。
私は、広告表現の危機とは、社会の危機だと信じて疑わない(断じて、ビジネスの危機などではない)。
「きれいな花だな」と感じることなしに、「きれいな花でしょ」とばかり喧伝する広告によって埋め尽くされた社会を、
怖くて、私は想像することができないからだ。