今年もまた、新緑の季節がやってきた。京都を訪れる観光客のピークは、毎年、桜と紅葉の季節だけれど、
その次に多いのが、この新緑の季節だ。東京からこちらに来て間もないころ、東山の緑を見ようと、
一人で南禅寺の山門に登ったことがある。南禅寺といえばもう東山の山すそで、濃い緑と薄い緑の鹿の子模様の山肌が、なだれ落ちるように迫ってきた記憶がある。
もちろん、東山の緑を毎日見ることはできないのだが、山科住まいなので、東山を裏から眺めるようにしてすごしている。
私の家からなら、南側をのぞいて、どの方向にも、二、三十分も歩けば、山にぶつかってしまう距離だ。
自然の脅威という言葉がある。二年前の東北の地震と大津波がそうだし、毎年やってくる大きな台風にも、
そうした言葉があてはまる。こんなとき私たち人間は、まさに自然の脅威になすすべもなく、頭(こうべ)をたれる。
人間の無力さ、小ささをつくづく味あわされるのだ。
けれど、人間の尊大さについて反省するのは、そうした自然の猛威に出合ったときだけではないのでは、と思う。
昔、紀伊半島に旅したときのノートを繰っていたら、「ときどき自然に接しないと、人間は傲慢になる」という書きつけに出くわした。
記憶では、旅からの帰途、紀勢本線の列車の窓に大きく広がった、熊野灘あたりにさしかかったときのことだった思う。
永遠に続くような砂浜に、打ち寄せては引く波の情景を見てそう思ったのだ。
おそらく、当時働いていた東京の人工の空間とくらべて、強く感じるものがあったのだろう。
いくら大きなビルを建てても、山並みや太平洋の雄大さには比べるべくもない。
また、明るいネオン看板を何枚ならべても、移り変わる自然の美しさには及ばない。自然を人間から切り離したとき、人の驕りは、頂点に達するのではないだろうか。