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エッサイ

2013 / 07 / 30

潜水艦の夏

潜水艦の夏

 「今日は、潜水艦の中にいるみたいに、蒸し暑いね」と、学生に言ったら、
「先生は、潜水艦に乗ったことがあるのですか」と、聞かれた。たしかに、私は潜水艦になんて乗ったことはない。
けれど、夏の蒸し暑さのこの例えを、これまで、あたりまえのように使ってきた。小さいころから、
私の親も含めて、大人たちが、皆そう言っていたらからだ。

つまり、私の親の世代には、潜水艦に乗ったことのある大人たちが、いたのだ。
私の父は、航空母艦の水兵だったから、見たことくらいはあったかもしれない。
母は、大分の別府出身で、保養をかねて別府湾に集結した艦隊の見学は、当時の女子学生にとってめずらしいことではなかったらしい。
はしけから潜水艦に飛び移るとき、あまりの甲板の狭さに、向こう側の海に落ちてしまいそうだったこと、
機械類でびっしりの艦内の息苦しさに閉口した話などは、何度となく聞かされた。

だから、「あの人は、戦時中は潜水艦乗りだった」ということも聞いたし、
何しろ、私たちの遊び場には、いまだ焼夷弾のあけた数メートル径の大穴がいくつもあった。
たまに、銃弾を土から掘り出して、自慢していた年上の子供たちもいた。アメリカ軍の戦闘機がときどきやって来て、
これみよがしに機銃掃射を加えたときのものだと、大人たちは言っていた。
潜水艦も、焼夷弾も、アメリカ軍の放った機関銃の弾も、私の子供時代には、ごく当たり前の、身近な存在だったのだ。

僕たちの生き方も、考え方も、基本的なところはみんな、記憶のしみついたところからしか、
生まれようがないのでは、と思う。憲法を変えよう、九条の条文は現実に合わない、
といった声が大きくなりつつあるが、戦後の平和をきづいたのは、むしろ九条ではない。
それは、生きて戦争を体験した人々の記憶に根差す、平和への固い信念からである。

その意味でいえば、九条は、私たちの戦争の記憶の刻印なのだ。その記憶が、
社会全体から消し去られようとしているとき、条文を変えてしまえという大合唱が起こるのも、
ごく自然ななりゆきだと思う。そしてその後にやってくるのは、当然に、彼らの記憶にない戦(いくさ)の季節である。