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エッサイ

2013 / 08 / 14

対話

対話

良い仕事をしている人の話を聞いて、よかったな、と思うことは、その仕事の成果ではなく、
その人の仕事の仕方のことだ。あるシンポジウムで、建築家のT・Iさんが、くり返して言われたことは、
近代の否定と、「対話」ということだった。近代の否定というと、ずいぶんむつかしく聞こえるが、
それは合理主義や、拙速さ、あるいはことなかれ主義の否定と言いかえてもよい。

登山にたとえていえば、近代の合理主義とは、どういう風にして頂上にたどりつくかは問題にしない。
大切なことは、いかに速く、効率的に頂上をきわめるかだ。だから、登山の途中の風景などにとらわれることなく、
また、足をとめて、道端に咲いた花をめでることもない。そんなことはむしろ、登頂に向けたスピードを競うことと、
できるだけコストを抑えるためには余計なことでしかないのだ。場合によっては、
ヘリコプターで頂上に降り立つことも排除しない。それが、合理主義というものだ。

ただ、どこでもいい。山頂ならぬ、どこか都会のビルの屋上から、その町全体を眺め渡せば、
そうした合理主義にもとづいた近代が、私たちに何をもたらして、何を取り落としたかが、よくわかることだろう。
その町の風土とも、歴史や文化とも、また人々の暮らしとも、いっさい関係のない、
オモチャ箱をひっくり返したような、寒々しい世界が広がっているはずだ。

そして、こうした合理主義にもとづく近代が否定してきたのが、T・Iさんがその必要性を強調してやまなかった、
「対話」である。―なぜ、対話なのか。それはおそらく、私たちが生きているこの世界が、人間世界だからだ。
たとえば建物は、人が暮らし、仕事をするところだ。もちろん、「対話」の重要性は、建築の世界にのみとどまるものではない。
私たちの仕事や活動は、そのほとんどすべてにおいて、人を相手としているはずだからだ。
そこで、人々の意見に真剣に耳を傾けることなく、ことなかれ主義に徹底し、
まるでブルドーザーで地面を整地するように、力づくでものごとを進めてきたのが近代なのである。

近代の否定をかかげ、「対話」を大切にするT・Iさんが、今、もっとも情熱を燃やしているのが、
小学3、4年生を対象にした子供建築塾だそうだ。それは今年で、三年目を迎えるらしい。