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エッサイ

2013 / 08 / 20

試されているもの

試されているもの

学生たちは試験が終わるとホッとひと息だが、出題した教員の側は、そこから闘いが始まる。
膨大な量の答案を採点しなければいけないのだ。今回の私の担当科目の試験は、○×形式と論述のミックスだった。
その○×問題の採点をすすめていたとき、これまでに経験のない答案に出会った。
その答案は、○か×を記入するカッコが、いくつか空欄になっているのだった。○か×だから、あてずっぽで書いても、
50%は正解の確率がある。だから、わかっていても、わからなくても、どちらか記入するのがふつうだ。

過去に、記入忘れの答案に出会ったような記憶はあるけれど、今回の場合は、明らかに、
自分で正答の自信のないものは空欄にしておきました、という感じが見てとれた。潔いと言えばそれまでだが、
よく考えると、この学生のしたことには、もっと深いものがある気がしてきた。

出された問題がよくわからくても、何かの選択肢で答えるものなら、まぐれ当たりということがある。
けれど、試験というものの主旨を考えてみれば、まぐれ当たりで得点しても、実のところ、何の役にも立っていないのである。
むしろ、自分の勉強の足らないところ、理解の不足したところを、たまたま得点することで、
逆に、不明瞭なままやりすごしてしまうことにもつながりかねない。

つまり、この学生は、自分が今、何を試されているかが、よくわかっているのだ。
試験の目的は、数字合わせにあるのではない。自分が学んだことを検証して、それで足らなかったことがあれば、
また、学び直すか、おさらいをして自分のものにすれば良いだけのことだ。入試のような選抜試験と違って、
とくに今回の期末試験のような場合、そうした色合いの方がずっと濃いはずだ。

こうしたことは、おそらく試験だけではないような気がする。仕事をしていても、
会議のような場で議論をしていても、それぞれのシチュエーションで、自分たちは、今、何を試されているかが、
どこかに飛んで行ってしまっていることが少なくないような気がする。

いつの間にか本題を忘れて、つじつま合わせに、いいかげんに空欄を埋めているような生き方が、むしろ、僕たちの日常なのではないだろうか。