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旅歩き

2014 / 08 / 16

石馬寺

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石馬寺

石馬寺

石馬寺は、白洲正子のエッセイ「かくれ里」にも出てくるお寺。そこには、
こんな風に書かれている―「繖山(きぬがさやま)の裾(すそ)を東の方へ行くと、
五箇荘(ごかしょう)という村がある。近江商人発祥の地で、どっしりした邸が並び、
素通りしただけでも恵まれた町であることがわかる。石馬寺は、その西のはずれの山中にあるが、
山の入り口には「石馬禅寺」と書いた石標が立っており、真直ぐ登って行くと、寺の石段につき当たる」(白洲正子「かくれ里」講談社文芸文庫)。

左|石馬寺入り口の石碑 / 右|本堂までは、名前のとおり、長い石段が続く左|石馬寺入り口の石碑 / 右|本堂までは、名前のとおり、長い石段が続く

正子によれば、繖山の「きぬがさ」とは、天蓋(てんがい)のことらしく、天蓋は葬送の儀に用いられ、
やがて埋葬の地をあらわすようになったという。お寺をたずねてみると、あたり一帯の雰囲気が、
落ち着いたというより、少しあやしい気配にさえ思えるのは、そうしたせいかもしれない。

石馬寺という、あまり聞きなれない名前の由来は、飛鳥の時代までさかのぼる。かの聖徳太子が、
国の安泰や民の幸福を祈る霊場をもとめ、馬に乗って、この繖山あたりまで来られたときのことだという。
突然、馬が歩みをとめた。不思議に思った太子は、近くの松の木に馬つないで山頂からあたりをながめられ、
なるほどここが自分の求めていた霊場にふさわしい地と確認され、太子が再び馬のもとへと戻られたところ、
すでに馬はそばの池に深く沈み、石と化していた・・・。今でもこの石は、坂の下の蓮池に、その背を見せている。

左|境内 右手の建物が本堂 / 右|本堂正面左|境内 右手の建物が本堂 / 右|本堂正面

その後、力のあった武家の佐々木氏のあつい信仰を受け、お寺は栄えたものの、信長と佐々木氏の戦いの兵火で、
お寺は灰塵に。後に、禅宗のお寺として再興されたのは、江戸時代にはいってからのことだと言う。

長い石段を登ってたどりついた境内は、思ったほど広くない。ただ、宝物館に納められた数々のお像は、
さすが由緒あるお寺だけあって、見ごたえが・・。平安時代から鎌倉時代にかけて作られたとされる、
阿弥陀如来坐像、十一面観音立像、四天王像など、国指定の重要文化財がずらりと並ぶ。
中でも、威徳明王牛上像と役行者(えんのぎょうじゃ)像は、やはり必見。

牛にまたがる威徳明王像は、もしもこんな勇ましいボディガードがいたとしたら、
この世に怖いものは何もないと思わせるほどの迫力。他のお寺の明王像とちがい、
身近に見ることができるせいもあってか、ちょっと忘れられないお像になりそう。

役行者という名前はどこかで聞いたことがあるかもしれない。もともとのお名前は、
役小角(えんのおづぬ)で、飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した山岳修行者。
山を駆け、雲に乗り、富士山までひとっ飛びという、今でいうスーパーマンのようなお方。
じっくり拝見して、なるほどこんな方だったのかと、納得のゆく写実的なお像。
そして、二人の従者を従えた修行中のお姿は、今まさに山から降りてこられたような感じが。

こうした役行者のような摩訶不思議な霊力を持ったお像が据えられていても、まったく不思議のない、
まさにパワースポットを思わせる雰囲気がこの石馬寺には感じられる。ふたたび石段を下って、
ふもとまで降りて来たときには、陽も落ちて、あたりは薄暗くなっていた。私はちょっと霊力には敏感なの、
と自信のある方には一番におすすめのお寺かもしれない。

こんなかわいいお地蔵さんたちも、石段のそばに。こんなかわいいお地蔵さんたちも、石段のそばに