竹生島(ちくぶじま)
竹生島(ちくぶじま)
能の演目のひとつに「竹生島」という物語がある。ひとりの都人(みやこびと)が、竹生島もうでにと、湖を行く釣り船に乗り込む。
けれど、その船は、竹生島の神である弁財天と、湖の主である龍神の乗る船だったというお話。
春霞の中を行く船上の道中のあいだは、人の姿をしていた神々だったが、やがて、陽も落ちかかって夜のとばりが島をつつみ始めたころ、本来のおどろおどろしい姿をあらわす。
暗がりの中を舞うその弁財天と龍神の姿に、都人はこうこつと見とれる。こうした物語の舞台として、さもありなんと思わせる島、それが竹生島。
滋賀をこよなく愛した作家の白洲正子(1910?1998年)も、その神秘的な島の姿かたちについて、こんな風に書き残している。
遠くから眺めると、その形には古墳の手本になったようなものがあり、水に浮いている所も、二つの岡にわかれている所も、前方後円墳そのままである。
神が住む島を聖地として、理想的な奥津城(おくつき)とみたのは、少しも不自然な考え方ではない(白洲正子「かくれ里」より)。
こうして古くからパワースポットと知られる竹生島だが、最近では、「偉大なる、しゅららぼん」の映画の舞台になった島として、若い人たちの間でも知られるようになった。
島に渡るには、JR近江今津駅から徒歩5分の今津港からの出発ルートと、もう一つはJR長浜駅から徒歩10分の長浜港から出発ルートの二通りがある。
正子が書くように、島は周囲2kmほどの、盛り上がった奥津城のような形だから、港から社殿へと続く道の傾斜は、けっこう長い石段が続く。
急な階段をのぼりつめると、やがて西国三十三所観音霊場・第三十番札所であり、「大弁才天」が祀られている宝厳寺本堂が見えてくる。
かつては、神仏一体の信仰の思想でいっしょだったのだけれど、今は、弁財天をまつる「宝厳寺(ほうごんじ)」と、
浅井姫命(あざいひめのみこと)をまつる「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」の二つにわかれる。
その宝厳寺本堂では、古くから「弁天様の幸せ願いダルマ」というかわいい小さなダルマの中に願い事を書いた紙を収め、
本堂に奉納するという願掛けがあって、私もしっかり、奉納させていただきました―。
本堂から少し行ったところの鮮やかな朱色で彩られた三重塔を過ぎ、さらに進むと、やがて観音堂とよばれる建物にさしかかる。
この観音堂に接して建てられている唐門(国宝)こそ、その昔、京都の東山にあった秀吉を祀った豊国廟の正門を、秀吉の子の秀頼がこの地に移したとされているもの。
ちょっと目には、古びた大きな入口?といった感じなのだけれど、さすが国宝だけあって、よく目をこらして見ると、さまざまな彫刻や鮮やかな彩色の跡なども見えて、う?ん、さすが国宝といった威厳に感心。
その観音堂の建物から続く廊下をさらに進むと(この廊下は、「船廊下?重要文化財」と呼ばれ、廊下の天井は、秀吉が朝鮮出兵した際の御座船「日本丸」の船底の骨組みを使ったもの)、
もうひとつのスポットでもある、平安時代の延喜式にも載る、由緒ある都久夫須磨(つくぶすま)神社本殿が見えてくる。神社名である「つくぶすま」は竹生島の古名とのことだ。
建物は、やはり秀吉の伏見城の遺構と伝えられていて、ここでもう一つの醍醐味であるかわらけ投げが行える。自分の名前と願い事を書いた手のひらサイズのかわらけという素焼きの盃を、
拝所から琵琶湖に向かう鳥居に投げ、それが鳥居の間をくぐると諸願成就と言われている。私もさっそく挑戦したものの、
これがなかなか難しく、願いというものはそう簡単には成就するものではないことをあらためて実感して、終了。
こうした様々な名所がある竹生島だが、さすがに湖の真ん中に浮かぶ島だけあって、島から眺める琵琶湖の景色もまた最高。向こう岸はほとんど見えないため、
なんだか大海原の中の小さな島にやってきたような気分になる。さらに春夏秋冬ごとに景色が違うと聞くと、毎シーズン訪れたくなってしまう。
しかも、そんなに遠出をした感じはない距離なのに、なんだか、ずいぶん遠くのところにある不思議な場所へ旅をした気分が味わえたのは、さすが神さまの住む島、でした。