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旅歩き

2013 / 05 / 03

義仲寺(ぎちゅうじ)

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義仲寺(ぎちゅうじ)

義仲寺

義仲寺(ぎちゅうじ)

芭蕉の墓は、滋賀県の膳所(ぜぜ)にある。芭蕉の名前は知っていても、お墓が膳所にあることを知っている人がどれくらいいるだろう。だれかの墓があるからといって、自慢するのもおかしいけれど、芭蕉が、自分が亡くなったらぜひここに葬ってほしいと願った場所が、この寺、義仲寺なのだ。ではなぜ、義仲寺だったのかたずねる前に、義仲寺とは、どんなお寺なのかから始めよう。

ここに、義仲寺についてよく説明したひとつの句がある。

木曽殿(きそどの)と背中合わせの寒さかな

この句は、芭蕉が作ったものではなく、芭蕉の門人の又玄(ゆうげん)の作ったもの。木曽殿とは、木曽の義仲(よしなか)のことだ。歴史で習ったように、いっときは平家を京都の町から追い出した義仲は、頼朝の命を受けた義経の兵によって、逆に都から敗走させられる。そして、この膳所あたりまで逃げて来たところで討ち取られたのだ。

義仲の妻は、男まさりの武勇で知られた巴御前(ともえごぜん)。義仲が倒れる寸前まで行動をともにしたその御前が、後年、義仲の菩提をとむらうために、この地に草庵を建てたのが、義仲寺のおこりとされている。だから、名前も義仲寺で、義仲の墓もここにある。

左|木曽義仲の墓 / 右|松尾芭蕉の墓左|木曽義仲の墓 / 右|松尾芭蕉の墓

そして、芭蕉がこの寺を、終焉の地として選んだのは他でもない。その昔、粟津ヶ原(あわづがはら)とよばれたこの辺りいったいは、琵琶湖に面した美しいところで、その風情を芭蕉がことのほか気に入っていたからだ。

芭蕉は伊賀上野の生まれで、いわば関西の人だ。俳人としての活躍の中心は江戸だったけれど、「奥の細道」で知られているとおり、全国を旅した人だ。この義仲寺にも何度となく訪れ、ときには、寺内の「無名庵」という庵(いおり)に長くとどまった記録も残っている。

行く春を近江の人と惜しみける

と詠んだ芭蕉が、死後の長い時間を、もっとも愛でたであろう景勝の地、ここ膳所で送ろうと願ったことに無理はない。

寺は、大津のとなり、膳所駅から歩いても七、八分の距離。こんなところに、芭蕉翁の眠るお寺が、と思わせる小さなお寺だ。けれど、お寺から、膳所駅に出るのと同じような距離を逆に湖方向に歩けば、そこはもう琵琶湖畔。湖面にふれられるくらいの気持ちのよい親水公園になっている。芭蕉もかつてそぞろ歩きしただろうほとりで、ゆっくりと、一句ひねる時間に費やすのもよいかもしれない。

寺内にある「行く春を近江の人と惜しみける」の句碑寺内にある「行く春を近江の人と惜しみける」の句碑