昔、SONYが作ったラジオ広告を聞いた。SONYのミュージックテープの音質の良さを伝える内容だ。少し長めだが、鯨の鳴き声がモチーフになっている。鯨が遠くの相手との交信に使う音声は約20ヘルツ、それはピアノの鍵盤の一番低い音で、一万キロメートルのかなたまで届くと言う。「南極の彼が愛の歌をうたえば、北半球のアリューシャン列島にいる恋人にも、その声が聞こえる」というのが、締めのコピーだ。
それより少し前、NHKのBS放送で、太地町の捕鯨漁のドキュメンタリーを見ていた。番組は、明らかに太地の漁民寄りの目線で、その筋立てのわざとらしさが気になったが、その中で、海外からやって来た反対派の人たちの一人が発した「鯨は賢い動物だから」という一言がひっかかっていた。
賢いから殺してはいけないという発想は、いかにも西欧的な考え方で、「山川草木、悉有仏性」を信条とする仏教的考え方の私たち東洋人には、受け入れがたいものがある。それは、賢くないものは好きにしてよい、という考え方の裏返しにすぎないからだ。
ところが、鯨のラジオ広告を聞いて、心ならずもというか、反対派の外国人たちの気持ちが、まったくわからないわけでもない気がしてきた。太地の入江で網にかけられたイルカたちが、おそらくその断末魔に発するだろう、せつない鳴き声のことが思われたからだ。もし、イルカたちの最後の言葉が、人の言葉のように聞こえるものなら、聞いてみたい・・・とは、とても言えない。
人間が生きて行く限り、これは大切に、これは殺してもやむをえない、それしか答えはないではないか、これが西欧合理主義的な考え方だろうと思う。だが、本当にそれでよいのだろうか。
こんな矛盾した思いに、今、自分の中で整理をつけているのは、地元の新聞に載っていたある僧侶の、こんな言葉だ―「いのちに思いをいたして生きることはできる」。僕たちが生きて行く上で殺生はさけられないが、そんな業(ごう)から、目をそらさないことはできる。こうした視点にだけ、唯一、わずかな救いが見えてくるような気がしている。