楓鹿図真形釜
1985年 サントリー美術館「茶の湯釜」展図録から
1985年 サントリー美術館「茶の湯釜」展図録から
まだ、サントリー美術館が赤坂にあったころ、日本の伝統的な茶の湯釜の展覧会があった。茶道の世界にそんなに詳しいわけでもなく、その上、茶釜なんて、と思いつつ足を運んだところ、意外に、さまざまな作品に出くわし、驚かされた記憶がある。
茶釜と言われて、私たちがすぐに思い浮かべるような基本的なカタチを真形(しんなり)釜と呼ぶ。けれど、茶人たちの嗜好は、私たちの想像をはるかに超えるものがあって、肩がのれんのように垂れ下がったもの、全体がひし形に面取りされたもの、中には富士山のカタチをした釜もあった。
ただ、そうした奇形の釜も、それなりに美しくまとまっていて感心させられたのだが、帰り道、疑問に思ったことがあった。単純なことだけれど、なぜ美しく感じたのかということだ。そのとき、思い浮かんだのが「節度のあるところに美は生まれる」ということだった。破天荒な釜もあるにはあったが、それらはすべて、茶席で湯を沸かす道具、茶の湯釜という一線を超えない、いわゆる節度とでも言うべきものとのぎりぎりの闘いの中で生み出された美しさだったのだ。
茶釜に限らず、コップのデザインひとつにしても、いくつかの制約がある。もちろん、注いだ水がもれるようなことがあってはいけないし、飲みやすさや持ちやすさなど、コスト面も含めて、あげればきりがない。そうした制約の中で、コップの制作者たちは精を凝らすのだ。
一見、制約が多くなれば、それだけ美の工夫がそがれるような気もする。だが、事実は逆だ。制約を守り、それを切り抜けたものだけが、節度の中から生まれた美を手に入れる。
例えばエコデザインの持つ、どこか惹かれる美しさも、このあたりにあると言ってよい。勝手きままに、とめどなくエネルギーや資源をつぎ込んだ生活は、派手で活力も感じられるかもしれないが、少しも美しくないのである。