数年前、人に誘われて、あるイギリスの思想家の話を聴きに行ったときのことだ。インド生まれのその人は、
いかにもインドの聖者といった感じで、私のような年代の者には、インド独立の父、ガンジーを思わせる風貌の人だった。
彼の話の中で、印象に残っているもののひとつに、ヒンドゥー教の神、シヴァ神にふれた話がある。
シヴァ神の像の中には、座った像もあるが、手をひろげ、片足をあげて踊っている像も少なくない。私たちの常識からいえば、
仏像でも、また日本の神々でも、たいていは静かに座っているか、両足をしっかり地面につけた立ち姿だ。その思想家の話では、シヴァ神のその踊り姿は、今を楽しむ神の姿をあらわしたものだという説明だった。
いずれにせよ、踊るシヴァ神の姿は、静ではなくて、動なのだ。そして、ここからは、私の飛躍なのだけれど、神ならぬ私たち人間も、動の姿勢こそが、もっとも自然なのではないか、ということだった。
先日、滋賀在の日本画家、大舩真言(おおふねまこと)さんのアトリエを訪ねたとき、自宅のお座敷に置いてあった作品「WAVE#00」のテーマが「ゆらぎ」だった。
そのため、私たちの会話は、そのまま「ゆらぎ」から始まった。大舩さんの「WAVE」シリーズは、すでに100作品近くになっているらしく、彼の作品シリーズでも柱となっているものだ。
たたみ二畳分をこえるくらいの、大きなその作品は、水とも霧とも、また空気そのものともつかない淡い「ゆらぎ」の世界が表現されたものだった。
その作品の置かれていた場所は座敷だったが、その作品も含めて、大舩さんの作品は、まるで野外彫刻のように、自然の中に置かれたときにいっそう映えるところが、特徴のひとつだ。
その理由について彼は、「私の作品と自然と、ゆらいでいるもの同士のピントがちょうど合ったとき、美しく見えるのでしようね」と言われた。
私はそのとき、かの思想家の語ったシヴァの神のことを思い出していた。大舩さんの作品もそうだけれど、私たち人間の場合も、こちら側も動いていないと、
つねにゆらいでいる環境に、うまく符牒を合わせることはできないのではないか。私たちの心や身体が、いつもゆらいで止まないのは、それはそれで自然なことなのだろう、と思ったのだった。