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エッサイ

2014 / 02 / 04

姿勢

姿勢

二年に一度くらい、滋賀県の農業大学で話をする機会がある。そこには、高校を出たばかりの学生たちが学ぶ二年コースの養成科と、脱サラで農業を始めようという人たちや、
すでに農業をしているものの、さらに専門的に農業を勉強したい人たちが学ぶ就農科という、一年のコースがある。だから、私が話をするときも、ひとつの教室に、二十歳前くらいの学生と、
その二倍も三倍もの年齢の人たちが、いっしょに席を並べることになる。

講義は、進行役の先生による「起立、礼」の号令で始まる。大学の講義では、まずこんなことはないから、ちょっと驚く。たしか、私自身も高校くらいまで、
そんな号令で授業が始まっていたような気もするが、もう夢のかなたのような記憶でしかない。だから、号令をかけられた私の方も、むしろ、こちらがびっくりして腰を浮かす感じだった。

ただ、おもしろいのは、そうしたちゃんとした挨拶から始まると、しゃべる方も居ずまいを正して、さあ、やるぞと、いった気持になることだ。
号令があってもなくても、話の内容とは何ら関係ないから、そんな杓子定規な挨拶は、不要といえば不要なのだけれど。

これは、いわばカタチと中身との関係だが、中身は不思議とカタチに出るし、またカタチから入っても、中身の方も、逆にカタチにならい始めることもしばしばある。
後者の例でいえば、禅の世界に、「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)」という言葉がある。ふだんの立居ふるまいこそが、そのまま仏の教えであるという意味だ。

講義が進むにつれて、学生たちの姿勢がやがて崩れていく。居眠りを始める者や、頭の中で他のことを考えていることが、まず姿勢にあらわれる。一方、社会人の多い就農科の人たちの姿勢はなかなか崩れない。
それだけ大人だからということもあるだろうが、おそらく、私のしゃべることを、何とか自分たちのこれからの仕事に生かしたい、という熱心な思いがそうさせているに違いない。

講義の最後あたり、デザイナーの佐藤オオキさんの仕事について少し触れた。佐藤さんは二十代のころは不遇だったが、やがて海外でその才能が認められて、今では花形デザイナーになった、という話をした。
驚いたことに、この話にさしかかると、若い学生たちの背筋がいっせいに伸びたのだ。自分たちの夢と佐藤さんの活躍ぶりが重なったのだろう。瞬間、彼らの心の姿勢が、カタチになったのだ。