今年も桜が咲き、そして散っていった。桜が散るのを悲しむことはない、散るからこそ、咲くことがうれしいのだ、と言った昔の人がいる。
たしかに、言われればそうだ。ただ、興味深いのは、その先の、ではなぜ、花が散ることで、咲くことがうれしく感じられるのか、という問いかけに対しては、どうだろうか。
これを情報学の世界でちょっとむつかしく答えると、「ないものがあるからこそ、あるものの存在が明確になる」ということになる。
学生時代、私の講義で習ったことを憶えている人もいるかもしれないが、「情報は差異から生まれる」。つまり、違いがあるからこそ、存在できるのが、情報なのだ。
その意味からいえば、桜が散ってなくなるときがあるからこそ、咲いたときの花を認識するということになる。
だから、少なからずの人が経験したことがあると思うけれど、例えば、近所の通りを歩いていて、どこかの家の庭先にさしかかり、
「えっ、こんなところに桜の樹があったんだ」と、驚くことがないだろうか。これが、年がら年じゅう、枝にピンク色の花をつけていたとしたら、
むしろ逆に、その桜の樹を認識することはないに違いない。
つまり、桜に限らず、私たちの存在というか、森羅万象が、その強弱、粗密によって確認されているというのが真実なのだ。
ただ、あることと、なくなってしまうことの順番や、その移り変わりの消長が、いったいどういう法則に支配されているのかは深淵で、
とてもその答えは私たちの手の届かないところにあると言うしかない。
私のゼミOBのかつての女子学生が、先日、亡くなった。ゼミの卒業生では初めてのことだ。
病名はわからないが、いまだ世界で150例くらいしかない難病にかかり、わずか一週間での急逝だった。
ゼミの第一期生だから、三十六、七歳の若さだ。順番でいえば、私よりも彼女の方が先に逝ってしまったのは、不可思議というしかない。
弔辞は、大学時代から仲のよかった、やはり私のゼミの卒業生が読んだ。東京での葬儀の朝、その文面がメールで送られてきた。
春のなごりにと花見に出かけ、少し残っていた花びらが、強い風に吹かれて舞い散ったその夕刻に、無二の親友の訃報を受け取ったことがつづられていた。