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エッサイ

2014 / 04 / 29

見られている

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先日、フェイスブックに私が書いた、ゼミのOBが亡くなった報に驚いたメールが、亡くなった彼女の同期生から届いた。
お悔みの言葉とともに、自身がすでに三人の女の子の母親であること、そして私のエッセイを毎回、楽しみしていることが添えられていた。
彼女からは、卒業以来の便りだった。名前と顔を思い出しながら、そうか、こんな人も、僕のエッセイを読んでくれていたのかと思った。

また、こういう仕事をしていると、たまに初対面の人に、「先生の本、読んだことありますよ」と、私ですら忘れかけている自分の書いた本の名をあげられることがある。
中には、先生、あそこはどう意味で書かれたのですか、などと質問する人もいたりして、答える私の方が、口をモゴモゴさせてしまうことさえある。

こういうときにきまって感じるのは、ああ、自分の気づかないどこかで、誰かが自分のことをちゃんと見てくれているんだな、ということだ。
とても勇気づけられるし、がんばらなきゃな、という気持ちにもなる。

広告クリエイターのOさんは、その傘下から、数多くのクリエイターを育てあげたことで知られている。
あるとき、どうしてそんなに多くの優秀なクリエイターを育てることができたのですかと、Oさんにたずねたときのことである。

返ってきた答えは、意外にも、「その人の作品をいつも見てあげていることだよ」という平凡なものだった。
適切な指導やアドバイスなどについての具体的な話を私は期待していたのだが、Oさんはむしろ、大切なのは、
「自分は誰かに見られている」という感じを、つねにその人に与えることなのだと、言われた。

話は少し飛躍するかもしれないが、ドストエフスキーの小説の中に、有名な「神がいなければ、すべてが許される」という下りがある。
一見したところ、この一文は、神をふくめて、誰にも見られていなければ何でもしてよい、という意味にとれるが、
それはまた、誰にも見られていないときの孤独感から人間が起こしてしまう罪の深さのようなものを言っているようにもとれる。

おそらく私たちが神を必要とするのは、本質的に、人間が、誰かに見られていなければ生きていけない、かぎりなく弱い生き物だからに違いない。