やはり世代的なものなのか、今でもネット社会にどっぷり漬かることが出来ないでいる。いつもネットとの距離を測りながら、暮らしているようなところがある。
例えば、何か書き物をしているときなど、気になることがあっても、なるべくメールを開かないようにつとめる。
自分の部屋でメールと開くことは、別に他の人と会うわけでもないし、電話口に出ることでもないのだから、自分のきままに何でもできそうなものだが、
それでも、一度、誰かからのメールを見たりするだけで、やはりどこか、それまでの自分ではなくなってしまうような気がするのだ。
自分の勝手な想像だけれど、外部と情報をやりとりする脳の働きと、自分だけの考えを掘り下げるときの脳の働きは、まったく別モノなのではないだろうか。
]両方がうまくスィッチできる人は、電話口に出ながらでも、良い文章が書けるのかもしれないが、私はそういうタイプではない。
学生たちを見ていると、絶えずスマートフォンをいじっているから、いつ自分だけの時間に戻るのか、他人ごとながら心配になってしまう。
何かを探し求めて、外からの情報を取り入れるだけでは、大切な自分の居どころを見失ってしまうのではないだろうかと。
これは、私のオリジナルの言いまわしではないのだが、今の人たちにも、「自分の中にある深い井戸の水を、つるべで汲み上げるような」時間が、
一日の中で、数分でもよいから必要なのではないだろうか。
そんなことを思っていた矢先、ある経済誌のコラム欄に、デザイナーの佐藤オオキさんが、こんなことを書いていた。
「『チャンス』というのは『女子』なんです、基本的に。目の前の仕事に脇目も振らずに夢中になっていると嫉妬し、自分のところに訪れる、と。逆に、常に『チャンス』を探している人には、目もくれない」と。
では、女性はどうすればよいのか、ということはともかく、オオキさんの言う複雑な女ごころは、ほんとうにそうなのか、ぜひ聞いてみたい気もする。