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エッサイ

2014 / 06 / 10

不完全なもの

不完全なもの

世に完璧主義者と言われるヒトがいる。仕事場でも、こういうヒトが上司だったりすると、下の者はずいぶんと疲れる。
本人が一人で完璧な仕事を目指すのならともかく、まわりの人まで巻き込まないで欲しいと思う。

かくいう私も、高校時代までそういった人だったかもしれない。ところが、大学生になって一人で下宿暮らしを始めたころから、
どうもすることがグダグダになってしまった気がする。本格的に非完璧主義者になったのは、仕事を始めてからだ。おそろしく仕事の量があったから、
どれも完璧にこなすことはとても不可能に思えたし、それでもなお、完璧な仕事を目指した人たちが次々と倒れて行くのを、目のあたりにしたからだ。

だから、人間社会にかぎらず、芸術の世界でも、デザインの世界でも、少しくらい不完全なところを残したものの方が、どちらかといえば好きだ。
もうずいぶん前だが、東京の美術館で、中国と日本の陶磁器の名品を、時代を追って紹介する展覧会があった。並べて見ていると、室町時代くらいまでは、
中国の製陶技術の方が先行するのだが、十六世紀の末から十七世紀の初めあたりにかけて、日本でちょうど茶の湯文化が最盛期を迎えるころになると、日本の陶器の方が、俄然、おもしろ味を増してくるのだった。

それまでの焼き物は、中国にならって日本でも、ろくろでひいたシンメトリーな器をよしとしていたのだが、この安土桃山の頃から、日本の方だけが、
左右不均等ないびつな焼き物の方を、重宝し始める。それは、茶人の利休や古田織部などの優れた芸術性もたぶんに影響していると思うが、
そうした不完全な美の方をよしとして迎え入れた、当時の日本の人々の審美眼も見逃すわけにいかない。

この時代の焼き物に関するかぎり、不完全な美の方が、すきのない完全な美に勝ったともいえるのだが、
その理由のひとつは、不完全な方が自然に近く、また、人間も自然の一部だから、より人間的とも言えるからだと思う。

現代の工業社会、そしてビジネス社会は、それこそ完璧な仕事を人々に要求するが、それは果たして、人間社会としてふさわしいものなのだろうか。
スペインに居たとき聞いた話で、イスラムの世界では、むしろ人は完璧な仕事をしてはいけないのだそうだ。完璧性とは、ひとり神にのみ許された行為だからだと言う。