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エッサイ

2013 / 05 / 03

電報

電報

はじめて映画のDVDを借りたときのことだった。まず、会員カードをつくらなければならない。言われるままに、必要用書類に記入したあと、応対の女子店員が、何か手元の書類を読み始めた。たしか、会員になるための規約のようなものだったと思う。

最初は黙って聞いていた。すぐに終わるだろうと思っていたからだ。何十秒くらい聞いたところだかはっきりしないが、これは、たいへんなことになったと思ったから、彼女のしゃべりを遮って、「いや、だいじょうぶです。規約は守りますから」と言った。「いえ、みなさんに聞いてもらうことになっていますから」という答えが返ってきた。途中で、説明をやめて欲しいなどと言う人は、私だけなのだろうか。

同じようなことを、昨年、それまでの携帯をスマートフォンに変えたときも経験した。このときも、いや、このときはもっと大量の無機質な説明を聞かされた。私が説明を聞くのが苦痛なように、同じことを何度も客に説明することは、本人もよほど苦痛なのだろう、けっこう、つっけんどうな喋り方だった。

別に、話し手の方に悪気があるわけではない。しかし、そのように命令する会社側も、本人たちも、コミュニケーションの基本を、どこかに置き忘れている気がする。人は関心のないこと、聞きたくないことには耳を傾けないものだ

最近、こうしたコミュニケーションの基本が、テレビのコマーシャルでも、新聞広告でも、ネットの広告でも、無視されているよう気がする。わが社が買ったスペースだから、時間枠だから、勝手に言わせてもらいます、という表現が多すぎると感じる。

たしかに、広告主はテレビ局からその15秒を買ったかもしれないが、私の15秒は私のものだ。新聞も、雑誌も、広告を読もうと思って買う人なんていないはずだ。かつて、広告の世界にいる人は、広告主も含めて、この点をきちんとわきまえていた。

おそらく、デジタルメディアでのコミュニケーションが幅を効かせるようになった頃からだと思うが、企業や商品の情報を、消費者は積極的に欲しがっているはずだという錯覚があるようだ。誰のセリフだったか、情の通っていない情報は、たんなる「電」報に過ぎない、という話を思い出した。