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エッサイ

2013 / 05 / 03

そこそこの人生

そこそこの人生

就職浪人をして、5回生になっていた男子学生が、就職先が決まったことを報告にやってきた。
二年越しの就職活動で、本人が希望していたところではなかったようだが、ほっとした感じが見てとれた。
「よかったじゃない」と言うと、「そうですね。僕は、そこそこの人生でいいんです」という答えが返ってきた。

―「そこそこの人生」か。何となくいいなあ。自分の人生を例えて使う言葉ではないかもしれないけれど、
聞いているこちらの気持ちまでなごんで来た。私も教育者の端くれだから、どうしても学生たちには、ハッパをかけざるをえない。
でも、いつもそれは、自分の本心からの言葉ではないような気がしている。

たとえば、彼が定年を迎えるような歳になって、「俺の人生も、そこそこだったな」なんて言えたら、
それは、きっと良い人生だったのだろう。「そこそこ」には、100点満点ではない物足りなさのようなものが漂っている。
でも、それを差引いて余りある、自分だけがつけられる及第点のような感じがある。

個人の人生だけではなく、どうも最近の社会全体に、進軍ラッパ勇ましく、旭日天を突くような意見をもてはやす傾向が出てきた。
そんな風潮に対して、思わず、「そこそこのニッポン」でいいんじゃない―そう言いたい気持ちになる。
「そこそこの国」「そこそこの成績」「そこそこの猫」、いいじゃない、みんな「そこそこ」で。

そんなおり、テレビ番組の「ちちんぷいぷい」で、長らくキャスターをつとめていた角淳一さんが、
「なかなかの国ニッポン」という言い回しをしていた。「なかなかの国」か、これもいい表現だ。納まり具合は、「そこそこ」より上のような気もする。

でも、ちょっと待って。もし人生を語るなら、「なかなかの人生」より「そこそこの人生」の方がやっぱりいい。
いろいろあったけど楽しい人生だったな、ささやかだけど、そうした「そこそこの幸福感」こそ、極上のような気がするからだ。