近所に、少し前まで元気のなかったおばあさんがいる。元気がなくなったのは、
おばあさんが長年飼っていた「テッちゃん」という犬が死んだからだ。おばあさんは、一人暮らしだから、
犬がいなくなってしまって、また本当の一人きりになってしまったのだ。
でも、最近、おばあさんはまた元気になった。新しい犬を飼い始めたのだ。名前は知らないけれど、
それは、小さな骨組に少しだけ肉がついたような超小型犬で、うちの猫よりも小さいくらいだ。
おばあさんが、ときどきその犬と散歩している姿を見ると、何だか、いつも目を細めてうれしそうだ。
おばあさんが押す荷車にヒモがついていて、その先に小さな犬がゆわえてある。荷車に引っ張られるようにして、
ちょこちょこ歩く犬の姿を見ていると、こちらの頬も思わずゆるんでしまう。
おばあさんが、元気になったのは、しばらく一人きりだったのが、再び一人と一匹になったせいもあるけれど、
おばあさんが、また、テッちゃんに代わる「可愛がる対象」を見つけたからだとも思う。
誰かに愛されることは、もちろんうれしいことだ。でも僕たちは、誰か、あるいは犬でも猫でも小鳥でも、
花でもいいのだけれど、何かを愛することの方が、もっとうれしく感じるようにつくられているのではないだろうか。
愛するといえば大げさだが、いつくしむ、可愛がるでもいい。僕たちの柔らかなハートは、きっと、そういうふうに作られているのだと思う。
「生涯、自分のためにだけ生きてゆけるほど、人間は強くない」―これは、いつかテレビで聞いた、
ある小説家のコメントだ。小説家の名前は、三島由紀夫。彼の小説も、そして、三島本人の生き様も、
こんな言葉の微塵も感じさせないものだった。でも、その三島でさえこういう感慨を持つのだ。
僕たちのハートは、自分のためだけに動いているのではない。いや、三島の言葉を借りれば、それでは生きてゆけないのだ。