マザーレイクサイトをスタートしてから、写真を撮る機会が増えた。
増えたというより、新たに写真を撮り始めたと言った方がよいかもしれない。自分でもうまく撮れたな、と思うこともあるし、
なんだ、期待はずれでした、ということも多い。もちろん、写真を撮るコツなんて、まったくつかめていない。
だから、このインタビューコーナーに出ていただいた新津保建秀(しんつぼけんしゅう)さんがおっしゃった、
次のような言葉は、とても印象に残っている―「写真の根源的な構造は、それまで無意識的に見ていたものを立ちあげるための、
なんらかのフレームの設定だと思っています。ふだん僕たちが目で見ている世界をフレーミングすることによって、
それまで茫洋としていたものが立ち上がって来るのです」。
ここで言うフレームというのは、一見、僕たちがよく使うターゲットという言葉に置き換えてもよいようにも思える。
何を撮って、何を撮らないかという問題だ。でもそれは少し違っていて、フレームとは、
写す側(つまり自分の側)の方にあるもので、写す対象のことを指しているのではないのでは、と思っている。
昔、土門拳(写真家 1909?1990年)が、丹波の壺を撮りに行ったときのことを、
ライターとして随行した評論家の草柳大蔵(1924?2002年)が書き残している文章を読んだことがある。
二、三日の旅で二人は出掛けたのだが、草柳がいくつかの窯場をまわって取材をすすめるのに対して、
土門の方はといえば、宿にひきこもったままだったそうだ。そして、持ち込んだ丹波焼きに関する本を山のように積んで、
日がな宿で読みふけっていたらしい。そして最後の日になって、数枚の写真を撮ったきりだったそうだ。おそらく土門は、
丹波の壺とは何かという、自分なりのフレームづくりに余念がなかったのだろう。
つまり、対象の本質はこうだろう、あるいはこうあるべきだというフレームが、
写真をと撮る側にあらかじめないと、写真はうまく撮れないのかもしれない。
その意味からいえば、おそらくフレームとは、写真を撮る場合にだけあてはまるものではなく、
私たちの生活全般に通じる、モノの見方、心がまえのようなものをさしている、とも言ってよいのではないだろうか。