私は瀬戸内海に面した町で生まれた。私の家から海までは、
自転車で二、三十分くらいの距離だった。だから、少し気が向いて「海でも見にゆくか」と思ったら、自転車をこいで、浜辺に向かった。
瀬戸内の海は、遠浅(とおあさ)の海だ。遠浅って何?という人もいるかもしれないけれど、
海岸からの砂地が広くてどこまでも海が浅く、たとえば大潮の日など、潮の引いた波先と、
地平線が重なるくらいの広さになるのだ。その砂浜に座って、かすむ水平線のかなたを見つめていると、
なんだか、ちょっとした勇気なんかが、湧いて来たものだ。
海でもいい、山でもいい、遠くにあるもの、視線のはるかかなたに大きく広がるもの、
不思議にこうしたものは、僕たちの心を落ち着かせ、また、カラダの奥底からみなぎってくるような力を与えてくれる。
琵琶湖もそうだ。大津のなぎさ公園あたりからでも、湖面の向こうにぼんやりかすむ比叡や、
そこからさらに続く比良の山並みを眺めていると、いつもよりずっと大きな気分、前向きな気持ちになってくる。
僕はテレビのなかった時代をほとんど知らない。そして、やがてインターネットがなかった時代さえ知らない世代も、
社会に増えてくるのだろう。そうなれば、社会はますます便利になり、今以上に、たくさんの情報があふれることだろう。
でも逆に、そのことによって、僕たちがどんどん失ってしまうものもあるに違いない。
それはちょうど、かつてのアメリカの開拓民たちが、西へ西へと土地を広げてゆき、
とうとう太平洋の際までやって来たとき、それまでに手に入れた土地と引き換えに失った「フロンティア」のようなものかもしれない。
フロンティアは地平線のかなたにある。判然としない水平線の向こうにある。
だから夢をはぐくむのだろう。希望をかきたてるのだろう。何もかもはっきりさせ、
すべてのものをあからさまに自分の手元に引き寄せることができる時代になれば、僕たちはきっと、精神のフロンティアを失ってしまうかもしれない。