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エッサイ

2013 / 12 / 17

パノプティコン

パノプティコン

パノプティコン?―聞きなれない言葉かもしれない。簡単に説明すると、イギリスの哲学者ベンサム(1748~1832)が言いだした言葉で、
もともとは、彼が考案したある囚人監視システムを説明するものだ。その監獄は、中央に高い監視塔があり、獄舎は、そのすそに扇状に配置されている。
一見、何の変哲もない構造だが、工夫されているのは、監視塔側からは、すべての囚人の様子がわかるのに対して、囚人側からは、
監視塔の窓がブラインドで隠されているため、見張りの看守がどこにいるのか、また、看守が果たして塔の中にいるかどうかさえ分からないという点である。

大量の囚人をごく少数の看守で見張りをするのに、これほど優れたシステムはない。
見張りの看守がどこにいるかさえわからず(むしろ、看守はいなくてもよい)、しかも囚人たちは、塔からはつねに見降ろされているわけで、
監視される囚人側にとっては、手も足も出ない仕組みなのだ。

私たちが、試験監督の際にしばしば使うのが、この手法でもある。カンニングをしようとする学生にとって、
おそらくもっとも脅威なのは、監督の教員が、学生からは見えない後ろ側に回った時だろう。教員が自分の視界にあるときは、
手法を駆使してカンニングすることも可能かもしれない。だが、後ろ側に回られたらどうしようない。監督の教員は、自分のすぐ真後ろに立っているかもしれないからだ。

後に、このパノプティコンを、国家が国民を支配する有効な手法として紹介したのが、
フランスのポストモダンの哲学者ミッシェル・フーコー(1926~1984)である。彼によれば、国家は力ずくで国民に言うことを聞かせる必要はなく、
監視の存在を国民側から見えなくすることによって、いつどこでも監視されているという「自己規制心」を国民自身に植えつければ、事足りるというのだ。

2013年12月6日に、この国に誕生した新しい法律が、このパノプティコン効果を最大限に利用したものであることは、
その性格からして明白だろう。政府が秘密裡に秘密を定める以上、私たちは、何が秘密なのかわからない。
つまり、国家という看守はいったいどこにいるかわからくなるのである。かくして私たちはこの日を境に、
自ら進んで、パノプティコンの囚人として生きていく道を選択することになったのである。